如意輪寺への石段は四十三段

 如意輪寺への石段下に椎名麟三の住まいが今も残っていて、今年の3月29日「椎名麟三文学碑」が建った。碑には

 「私の家は、女人堂という寺へ行く石段のたもとに建てられていた。

 私は、学校から帰ってくるとそこでひとりで遊んでいるより仕方がなかったのであるが、その石段への寺へ用事のある村人や ときたまやってくる参詣人たちが上がったり降りたりした(略)

 その石段は、四十三段あった。

 私は、この事実を誰かに教えたくて たまらなかったのだが、誰にも話すことができなかったのだ。」 『菱の花』(一九六〇年)より

1292942_img 1292941_img  これを読んだわたしも数えながら石段を登っていった。今も四十三段ある。

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書写・如意輪寺に高砂奉献の石仏

 書写の如意輪寺に高砂浦右衛門、響灘立吉らの名が刻まれた消闇塔があることはよく知られているが、境内に西国三十三ヶ所観音霊場巡りの石仏があり、その第壱番那智山は高砂浦右衛門が寄進していることがわかり、見に行ってきた。

 台石右面に「堪然勇智信士」、左面に「姫路 高砂浦右衛門」。

1292943_img  これらは天保六年三月に建てられたもので、戒名は力士のものと思われ、弟子の供養に奉納したのであろう。誰であるのかは目下不明。

 高砂は荒灘、岩山から改名した力士で、安政三年歿。

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響灘立吉の墓か?

 以前から気になる響灘立吉の墓を姫路市にある名古山霊苑の無縁墓群の中で見つけた。

 前面も左右面も他の墓があって、動かそうにもどうにもならない。かすかな隙間から見える刻字、墓の大きさ、勘からほぼまちがいなしと判定した。背面に碑文があるかもしれないが、これはどうしようもない。もちろん台石などもない。今、生家の子孫と相撲絵がきっかけで交流のある三河國さんに頼んで、裏付けを取っている。

 さらに、廣之海墓と刻まれた墓もあった。こちらは左面の一部が見え、号棒火矢とか、朝日山四郎右衛門弟子などと読め、廣之海富五郎であることがわかる。右面上部に嘉永二年と見えるので現役死亡。

 他にも御所嶋、浅尾山、桐島などがある。が、蚊が多く、11月頃改めて行くことにする。力のある人、手伝ってくれるとうれしい。

 戦災を受け、寺院にあった墓がここに集められているが、すっかり新しい墓に建て替えられていて、高く積まれた無縁墓群はどんどん増えていく。響灘と思われる墓や廣之海は低い位置にあるのでそれだけは助かる。

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初代玉の海と郷土力士展

 初代玉の海梅吉の顕彰碑を建てる、その基金の募集に「初代玉の海と郷土力士展」と題して写真展を催している。

 6月29日から7月3日まで、シーハットおおむらコミュニティセンター

 7月6日から10日まで、JA大村中央支店ロビー

 珍しいところでは、男女ノ川を中心に、右に双葉山、前田山、羽黒山、左に鏡岩、名寄岩、玉ノ海。後ろに出羽湊、中川(吉野山)、出羽海(両国)、春日野(栃木山)、竹縄(常陸嶽)が紋付き羽織姿で後援者との記念写真。

 その他、戦時中の写真、書(軸物、色紙)、ブロマイドなど。相撲史発掘家のご厚意で見せてもらった。

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上方相撲絵調査研究報告書

 今年の4月1日から5月17日まで関西大学図書館で「長谷川貞信 ~大阪の浮世絵師~」展が開かれ、数少ない相撲絵も紹介された。

 大阪歴史博物館の飯田直樹さんは“「上方相撲絵」の制作・出版と相撲史トピックとの相関関係についての研究 ー錦絵の社会文化史的研究試論ー”と題して、財団法人ポーラ美術振興財団から調査研究報告書を出された。

 上方相撲絵は写実的で、そこに描かれている情報を分析することは相撲史研究にとって意味のあることと、時代背景やひいき筋との関係など、非常に興味のある内容になっている。

 わたしは江戸の相撲絵も四本柱を背に描かれている年寄など、その内容を分析する必要を感じている。

 

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麻生さんへの贈り物

 姫路市四郷町は古墳の多いところ、歩いていると古墳めぐりですかと声をかけられる。古墳ルートの矢印が目立つ。

1292919_img 1292920_img  奥山に麻生(あさお)八幡神社がある。その参道にある石鳥居右柱に「施主継村 貴船川勘蔵」、左柱に「弘化三丙午歳十二月」とある。麻生八幡は奥山村と継村の氏神で、氏子として鳥居を寄進したことがわかる。

 継の墓地には貴船川の墓は見つからず、芭蕉の簑の一筋を埋めた小簑塚があり、“はつしぐれ猿も小簑をほしげなり”の句も刻まれている(天保六年十月 石田五芳 同門人建)。

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大統領からの贈り物「まほろば 69号」

 ブランド共和国大統領からの贈り物『まほろば』69号を3月にいただいたが、例年2月から6月までは本職の多忙期で動きが取れず、やっとそこに記されている山城椿井の松尾神社に奉納されている板番付を見に行く。

1292927_img  棚倉駅からまず神童寺へ行く。茶畑に囲まれた山道を行くと、地区の入口に墓地、石仏がたくさん保存されている。神童寺の拝観受付があったが声もかけずに戻り、今造成中の新道を行く。どこに出られるか不安だったが、史跡大塚山古墳の脇に出る。

 南下して松尾神社への矢印にしたがって竹藪の中を東進すると、自然石に「寛延三庚午四月十八日 日本廻国 法師永順」と刻まれた読誦経塔があった。

 松尾神社の拝殿の相撲番付を持参した双眼鏡で読み取りをはじめると、若者が来て、神社をくまなく調べ、わたしが何をしているかを尋ねる。ナルホドと感心して立ち去る。

 大統領は望遠レンズで撮影したが、写りがよくなかったようで、明治十五年では死んでいるはずの駒嵐覺左衛門、さらに石松捨吉とか苦心の末、原稿にしている。

 東方 大関小柳重吉 関脇小の川才助 小結手柄山幾弥 前頭 筑士灘藤太郎 和田嵐清吉 阿武松重五郎 千年川留吉 石火矢捨吉 注連松林蔵 荒寅捨吉

 西方 大関磯風音治郎 関脇谷風岩五郎 小結 駒ヶ峰清吉 前頭 剱山岩五郎 春日森太三郎 柏戸太助 千男山良治 釈迦嶽安治 袴越太平 大灘大五郎

 二段目以下は略。勧進元は小嶋小三郎。

1292935_img  木津川へ架かる開橋東詰にある西河原墓地に鳴子川喜七(明治廿四年十月 柿本氏)があった。鳴子川は神童寺の方から木津川へ流れている川にあやかってのしこ名。

  

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「街道を行く力士たちと近江の相撲」展終わる

 草津宿街道交流館での春季テーマ展「街道を行く力士たちと近江の相撲」展は、途中インフルエンザのため休館もあったが、好評のうち、無事終了した。

 多くの方に来ていただけたのも、学芸員の方の企画、資料集めのご努力のたまもので、膳所藩の史料、実地での調査など、内容のある展示で、わたしにとってもいろいろ参考になった。

 多くの方から見に行ったとの報告を受け、また、二度、三度と足を運んでおられた人もあった。侠客研究家が地方番付を食い入るように見ておられたのも印象に残る。親分が興行人や世話人、親方衆に名を連ねているからである。

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雲井竜は大津鹿関町生まれ

1292923_img  2008年11月12日付のこのブログで、「近江龍馬会」が来年の大河ドラマ「龍馬伝」に向けて近江にゆかりの寺田屋お登勢と山田藤吉の資料、情報を求めていることを書いたが、大津市内にはそのチラシが駅などに置いてある。

 雲井竜の山田藤吉が大津鹿関町生まれというのは、戦前の龍馬研究者として名高い岩崎鏡川が『坂本と中岡の死』という著書に書かれており、現在の三井寺町大内通り、琵琶湖からの疎水への取水口あたりになる。

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七七日

 一緒に新しく会社を興し、その代表取締役が4月28日に亡くなった。その一週間前、病院で最後の別れ、涙を流し、ありがとうといってくれて手を握り合った。きょうが七七日。五人いた仲間もわたし一人が残ってしまった。

 真如堂ゆかりの寺の住職でもあって、法名は無限相院権大僧正歓阿上人即榮。なにかあの世では近づきがたくなってしまったが、「おお、とうとう来たか」と迎えてくれるであろう。

 新しきリーダーを支えて、まだ当分現役をつづけることになりそうだ。

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