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2006年11月23日 (木)

鑛岩五郎

 もう11時をまわる。永井に戻り、国道4号へ出て南下、矢巾町高田の高伝寺に寄る。『南部相撲資料』に「二所関ノ跡ハ黒川村ノ横枕北田助二郎ノ家ニテ寺ハ高田村ノ高傳寺ナリトゾ」とあるので尋ねたが、何もわからないという答しか返ってこなかった。墓地には宮城千賀子の墓があった。

 徳田橋を渡って再び盛岡市に。乙部の如法寺の入口に“餓死供養塔”が建っていて、市の史跡に指定されていた。説明板には「天明三年の大飢饉は南部藩における四大飢饉(元禄・宝暦・天明・天保)の一つでありこの年を例にとれば五月より霖雨低温八月降霜米穀ほとんどみのらずその為餓死する者四万余人悪疫病死者二万三千余人を数えたという。この供養塔は建碑以前の大飢饉において餓死した亡者の為碑を建て供養したと推定される。」供養塔には明和五戊子年二月廿有日とある。

 七ッ瀧岩平の墓のところで触れたが、天明の飢饉の際に抱え相撲は中止になり、雪ノ浦松之丞、釻貫門右衛門らが暇を出されている。今度の展覧会図録にある「岩手県相撲年表」にこの件が掲載されてなく、明和安永あたりからは力士の消息に終始しているのは残念なことである(執筆者はスペースの関係で原稿が削られて意のままになっていないと嘆いている)。

Photo_25  紫波町栃内の江岸寺入口にある鑛岩五郎は自然石で、文久二戌歳十月廿一日歿。この寺は栃内氏の拝領地にあり、鑛は栃内氏の僕として働いていたようである。

 7時間半歩きづめで、ようやく4時半過ぎ古館駅着。4時57分の列車に遅れると6時10分花巻発の伊丹行きに間に合わないので、必死であった。

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