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2011年2月12日 (土)

歌ヶ濱建立の男體山碑

 鹿沼市の生子神社に泣き相撲を見に行った折り、樅山駅から少し行った住宅地に歌ヶ濱が建てた小さな男體山の碑を見たが、2メートル以上もある男體山碑も建てていた。

 『栃木県歴史の道調査報告書 第一集』の30ページに「喜沢東交差点の手前の交差点を左折し、そのまま西へ進み、国道四号を横断すると日枝神社に至る。江戸時代は山王と呼ばれていた。付近は小山城の北の守りを固める支城であったと言われ、樹齢四百年を超えるというケヤキの大木が繁る。社殿裏の土塁上に天保六年に東都年寄り柏戸宗五郎門人が建立した男体山碑が建つ。自然石で塔高二三六センチ、道標を兼ね、「左日光、右奥州」とある。この石碑は明治四十五年までは喜沢の追分にあったものと伝える。

 同書の133ページにも「追分の南西約三〇〇メートルに位置する日枝神社境内にある「男体山の碑」、高さ二三六センチにも及ぶ大型の石碑で、下部に「右奥州・左日光」と刻まれている。天保六年(一八三五)江戸相撲哥ヶ浜斧吉(鹿沼玉田出身)の発願により建立されたものである。宇都宮方面の日光道中を「日光」とせずに「奥州」と表現したことから「日光」方面、つまり壬生通り方面への人々が流れるのを恐れた人々によって何度も倒され、明治四十五年(一九一二)にようやく現在地に移して祀り直されたものである。

 この二つの記述は同じ碑のことである。ネットで碑の正面が見られるが、歌ヶ濱の名は背面にあるようである。哥ヶ濱のしこ名は中禅寺湖の名所から取られている。玉田には歌ヶ濱の墓もあるに違いない。

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