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2012年6月22日 (金)

福崎町の相撲史跡を歩く その1

 『相撲の史跡 5』に福崎町も載せてはいるが、大昔に柳田国男の生家を訪ねた折、駅前の墓地を調べた分しか記していない。

 その後、『福崎町の文化財 第三集』石造遺品に“力士”も取り上げられているのを知り、さらにHP「田原郷の宮相撲(興行相撲)の歴史」を見、訪ねなければならないと思いつつ月日が流れ、仕事から解放されたのでやっと出かけてきた。

 まず、福崎新の墓地にあった国分源蔵が文化財の本に載っていないのはなぜか、確かめに行く。墓地は高速道路で分断され、北と南に分かれていた。森家の墓は新しく建てかえられ、古い墓はまわりにかためられ、国分源蔵と刻まれた部分などが見えなくなり、本に掲載されなかったものと思える。「勇猛院宗精信士」の部分は見えるが、「義兄書写ヶ嶽勢次建之」の部分も見えなくなっている。

 新しく南の墓地に平錦忠太郎が見つかった。明治四十年十月十六日 三十歳。

 吉田墓地では見いだせず南下、長目の路傍にある墓を探す。行けどもそれらしきもの見あたらず、人にも会わず、やっと最南端で見つかった。左から谷風碑(大正十三年建)、緑松長太夫墓(明治二十九年卒 義太夫)、坂の森墓(明治三十四年建)、豊竹紙保(明治四辛未建 義太夫)の四基が並んで建っている。

 中島の墓地へ、緑り松常蔵(明治四十三年建)があった。

 吉田の安徳寺へ。入ってすぐの左手に、村雨富七墓(天保八)。

 田尻の公民館西墓地へ向かう。人に聞いてやっと公民館はわかったが、ぐるりと回ってみたが、墓地がない。またまた人に尋ねて神社の左手にある小さな寺を教えられ、その裏手に墓が整理されて積まれていることがわかった。富士颪庄右衛門(文政十二年四月二十九日死)、書写ヶ嶽銕五郎(明治十年陽月十六日)が上段中央にある。もう一つ右手の方に岩木山兵三郎(明治四十二年十一月建)。

 銀の馬車道の説明板がある。生野銀山から馬車で飾磨港まで運んだという。

 大門へ行く。共同墓地に富士颪次作(明治四十年三月 門弟中)が入口の松田家墓域にある。墓誌を見ると明治四十年七月廿九日歿、俗名岩吉。

 旧街道の路傍に二つ並んで、左に富士颪傳造(明治廿七年二月九日)、右に富士颪長蔵。

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コメント

相撲の歴史について、調べている者です。

相撲博物館に問合せをしたところ、このブログを教えて頂きました。

相撲の歴史にお詳しい方に、お伺いしたい事があるのですが、メールアドレスか、その他のご連絡先を教えて頂けませんか?

「初代式守伊之助の墓が、関東大震災後、相撲寺から撤去されてしまった理由について」と「伊之助の祟り」について、知りたいと思います。

投稿: | 2012年6月22日 (金) 13時46分

 せっかくですが、詳しいことは聞いておりません。

投稿: 竹ヶ戸 | 2012年6月23日 (土) 07時27分

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